林・八杉、「不完全性定理」の感想
タイトルの通り、この記事は以下の本の感想である。
本全体について
この本は
の二部からなる。と言っても、翻訳48ページ、解説220ページと解説が大幅にある本だ。
翻訳について
翻訳は基本的に元々の論文に忠実な記号法であり、現代的なものとは異なる。例えば量化子のやなどではなく、Principia Mathematica*2的なやなどが用いられている*3。また用語法も現代的ではなく、訳者による注釈によって説明はされているが、私は数理論理学や不完全性定理をまだ学んだことのない人には、この和訳を読んで学ぶことをお薦めし兼ねる。また現代的に精緻化された証明ではないため、そういうものを求めている人が読むべきでもないと思う。例えば第一不完全性定理はロビンソン算術ではなくPrincipia Mathematicaの体系をゲーデルが簡略化したものについて証明されている。また第二不完全性定理についてはゲーデルは証明の概略を述べることしか行っていない*4。また無矛盾性を表す文も「は証明可能でない」という形ではなく「証明不能な文が存在する」という形で述べられている*5。こういう点からゲーデルの論文で(あるいはその和訳で)初めて不完全性定理を学ぶということはお薦めできない。
しかし、ある程度、数理論理学を学んだことのある人にとっては得られる知見、表現は多いのではないかと思う。翻訳に酷いところは全くなく、またゲーデルの論文の独特な強調の仕方も分かりやすく説明されている。また省略されがちな論理式の符号化に関してもゲーデルはしっかりと行っているし、文献の情報も豊富であるからだ。また歴史的にどのように不完全性定理が証明されたのか、などにはこの本は一見の価値があると思う。
解説について
解説は以下のような構造を成している。
- 導入部(第一章)
- 歴史部(第二章から第五章)
- 検証部(第六章から第八章)
この導入部では不完全性定理のよくある誤解について、歴史部では不完全性定理までに渡る数学基礎論の歴史について、検証部では不完全性定理のその後と、ゲーデルの論文の定理や構造について述べている。
この本の凄いところは歴史部にあると思う。私は数学基礎論の歴史について、数理論理学の本の前書きやコラムで述べられていた断片的知識しか持っていなかったが、この本はその断片的な知識を一つに纏め上げてくれたと思う。例えば、論理主義、直観主義、形式主義の対立などは、よく話されている内容だと思うが、それがどのような時系列で、誰が、どのような場で、といった状況を私は知らなかったが、そのことについてしっかりと述べていることがとても良い。
この本の歴史部は主にヒルベルトに目が向けられていて、ヒルベルトの数学基礎論の歴史から、ゲーデルの不完全性定理までの歴史が緻密に描かれている。ゲーデル自身の経歴などにはあまり述べられていないとこの本が批判されることがあるらしいが、不完全性定理の意義をするためにはゲーデル史ではなく、当時の基礎論の流れにいたヒルベルトを中心として解説をするのには納得するだろう。
検証部の初めではゲーデルの不完全性定理のその後について述べられているが、その後の発展の具体例などは、知っている人が見れば分かるが、何も知らない初学者が見て分かるだろうか、と疑問を持つところもいくつかあった。またそれに関して具体的な文献も示されていなくて不親切かなと思いもした。
検証部の残りでは、ゲーデルがどのようにして、不完全性定理を思いついたのか、ということに対する考察がなされており、とても参考になり、また不完全性定理の帰結は歴史的に妥当なものであるということが分かった。
終わりに
結論として、初学者にとってゲーデルの論文で不完全性定理を学ぶのにはお薦めできないことと歴史的なことを知るためにはこの本はとても良い。またこの本は岩波文庫から出版された、つまり文庫本なのである。一般的な数学書が2000~10000円するのに対し、800円+税で買えるので十分手に取って読める値段であることが(個人的に)良かった。
またこの本を読むに渡って、あるいはこの本の補足として、渕野先生によるこの本の書評*6と林先生本人による正誤表*7がとても参考になった。並行して読むと面白いだろう。
*1:Gödel, Kurt. "Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I." Monatshefte für mathematik und physik 38.1 (1931): 173-198.
*2:Whitehead, Alfred North, and Bertrand Russell. Principia mathematica. Vol. 1, 2, 3. University Press, 1912.
*3:そもそもはGentzen, Gerhard. "Untersuchungen über das logische Schließen. I." Mathematische zeitschrift 39.1 (1935): 176-210.によって導入されたため、ゲーデルが論文を出したときにはまだ存在しなかったわけであるが。
*4:完全な証明はによってHilbert, David, and Paul Bernays. "Grundlagen der Mathematik I, II." (1974).で初めて与えられた。
*5:そして面白いことに、ゲーデルによる無矛盾性を表す文はヒルベルト・ベルナイスの導出可能条件やレープの導出可能条件を満たす証明可能性述語で「無矛盾性を証明できない」ということを証明できないことが知られている。Kurahashi, Taishi. "A note on derivability conditions." arXiv preprint arXiv:1902.00895 (2019).
*6:渕野昌. "[[[不完全性定理に挑む] に挑む] に挑む], ゲーデル (著), 林晋, 八杉満利子 (解説, 翻訳), ゲーデル 不完全性定理/田中一之 (著), ゲーデルに挑む 証明不可能なことの証明 書評." 科学基礎論研究 41.1 (2013): 63-80.